名乗らない
「いたずらされたー! 葵、いたずらされたよ!」
朝の廊下に、葵ちゃんの声が響きました。
部屋の前の靴が、きちんとそろっていた、と。
だれかが夜のうちに、いたずらをしていった、と。
ひと部屋ずつ、戸をたたいて回っているようでした。
わたしは、自分の部屋の戸の内側で、
髪を結ぶ手を止めて、聞いていました。
わたしの戸も、たたかれました。
「ちーちゃん、見て見て!」
見に行きました。
ゆうべ自分でそろえた靴を、
はじめて見るような顔で、見ました。
「……き、きれいに、そろってますねぇ」
それだけ言いました。
名乗りませんでした。
いつもなら、すぐに謝っています。
勝手にさわって、ごめんなさい、と。
謝らないままでいるのは、
靴ひもがほどけたまま歩いているようで、落ち着きません。
午後のアリーナで、サーブを四十五本打ちました。
打っているあいだ、何度も、
いまから行って謝ろう、と思いました。
思うたびに、次の一本を打っていました。
四十五本打ち終わっても、
わたしは、謝りに行きませんでした。
葵ちゃんは、夕食のチキンソテーのときも、
まだうれしそうに、靴の話をしていました。
いたずらをされて、あんなに喜ぶ人を、はじめて見ました。
……わたしは、ゆうべ、
ほんとうに、いたずらをしたのでしょうか?